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旅の感想文 姑嫁のフンザ珍道中!?旅の感想文 姑嫁のフンザ珍道中!?

旅行期間 2005年4月8日~18日 五島好子・玲子


車は、日が暮れ始めたアリアバードを抜け、フンザの中心地・カリマバードに入る。薄暗い車窓に、ぼんやり白いポプラの木々と、花が浮かび上がってきた。

「ああ、杏の花ですね」「ほんと」。そんな短い会話を母と交わす。

よかった。あきらめずに、ここまで来て本当によかった。

パキスタンの首都、イスラマバードに着いてから4日目。フンザまでの道のりは、(日本人ツーリストである私たちにとって)長く険しいものだった。私ひとりだったら、途中であきらめて帰っていたかもしれない。ここまで私たちがたどり着けたのは、パキスタンで出会った多くの人々の支えがあったからこそ。そしてそれ以上に、母の「フンザに行きたい。杏の花を見たい」という気持ちが、夢を現実のものにしたのだ。

母といっても夫の母と私、つまり、姑&嫁のパキスタン珍道中?は、母のフンザへの積年の思いと、不思議な縁が重なり実現した。

『失われた地平線』という小説がある。『チップス先生さようなら』などの著作で知られる作家ジェームズ・ヒルトンのベストセラーのひとつだ。「この小説に出てくる桃源郷のモデルは、フンザらしい」と母が知ったのは約30年前にさかのぼるという。

「テレビの地理番組で見て、『行ってみたいな』とおぼろげに思ったけど、当時は子育てと仕事で忙しくて、それどころじゃない。すぐに忘れてしまったんだけどね」と母。チャンスが巡ってきたのは、退職後の2001年。教え子のひとり(母は教師でした)とツアーに申し込むものの、体調不良でキャンセル。さらにその年に9.11テロが勃発。パキスタンに行くこと自体が難しくなってしまう。「もうチャンスはないのかな」とあきらめていたころ、2004年、いくつかの旅行社でフンザへのツアーが再開されたのを知る。じつは、その年に私は夫と結婚。母と話をするうちに、お互い旅好きと知って、今回の旅が実現することとなった。

私はといえば、それほどパキスタンに興味があったわけではない。が、その2年前ぐらいに偶然、知り合いの案内で、この「シルクロードキャラバン」ベーグさんの奥さんのフンザ写真展が東京で開催され、これを観に行っていた。そんなわけで、旅のアレンジもシルクロードキャラバンさんにお願いすることとなった。「嫁姑で旅行するなんて仲いいね」とよく言われたが、そもそも結婚直前から旅に行くまで、母と会った回数は3~4回ほど。なのに、すんなり「いっしょに行きましょう」と話がまとまったのも不思議だ。これも縁がとりもってくれたということなのだろう。

旅先での出来事や日々感じたことは、一冊の本になるぐらい膨大だ。すべてを書くことはできないが、やはり冒頭に触れた「フンザへの長く険しい道のり」については、記しておかねばならないだろう。

フンザへの道、カラコルムハイウェーの悪路ぶりについては、よく知られているが、昨年の春は特別だった。私たちは、二度、土砂崩れの現場に出くわした。記録的な積雪と降雨で地盤がゆるみ、土砂崩れが多発していたのだ。

一度目は、6時間ほど待機した結果、道路が開通。車で通ることができた。しかし、二度目の土砂崩れは大規模なもの。私たちは、車を乗り捨て、土砂の山を徒歩で乗り越えなければならなくなった。「山の民」である地元の人々にとっては、朝飯前の“山越え”も、ツーリストの私たちにとっては、すさまじい難業。足をすべらせたら、インダス川にまっさかさま…高所恐怖症の私は、正直ここに来たことを後悔したほどだ。

ガイドでついてくれていた青年、シャフーさんは、一見、細身の文学青年風であったが、私たちの重い荷物を背負って渡ってくれた。さらに心強かったのは、その場で出会ったシャフーさんの友人2人が、私たちの手を引いて誘導してくれたことだった。彼らの助けがなかったら、母も私も“山越え”は無理だったろう。パキスタン男性の強さと優しさに、ふたりの乙女?はヘロヘロになりながらも、すっかり心奪われ、深く感謝したのだった。

結局、この土砂崩れは、その3日後、復路の際も、完全に復帰はしていなかった。携帯も通じないなか、現場の様子をリアルタイムで知ることもできず、重機も足りない。人手も足りない。これが自然のなかで暮らす現実だ。

そんな一世一代?の体験もしたカラコルムハイウェーだが、道中の風景はじつに興味深いものだった。崖をひょいひょいと駆け回る子供たち、ヤギやロバの群れ。村々によって、着ている服やかぶっている帽子の柄も異なる。パキスタンでは34の言語が話されていると聞いて驚いた。話す言葉が異なれば、文化も異なるということだろう。母は職業柄、日中駆け回っている子供たちが学校に通っているのか気になるようだった。日本の援助資金などで、建てられる学校も増えているという。が、建てた後の維持がうまくいかず、閉鎖されるケースもあるようだ。教育は受けないより受けたほうがいい。しかし経済的・文化的にそれを良しとしない場合もある。なにが正しくて間違っているのか、外野からは口を出せない。

私たちが目指したフンザは、パキスタンでも教育の普及率が非常に高い地域だという。パスー村では、学校のすぐ近所のゲストハウスに泊まったおかげで、毎朝・毎夕、元気な子供たちと出会った。フンザの子供たちは、地理的な問題なのか、西欧の血が混ざった顔つきの子が多い。多くのわんぱくボーイズ&はにかみガールズたちと、触れ合えたのも、この旅の醍醐味であった。

また、フンザはイスラム教のなかでも、イスマイーリ派という穏健派が主流。女性たちが顔をベールで隠すことなく、外で生き生きと働いていた様子も興味深かった。なにせ地域によっては、街中で女性の姿かたちがまったく見られないこともあったのだから。力強く働く女性たちといろんな話ができたのもフンザでの貴重な思い出だ。

杏のことをもう一度書きたい。

母の心に深く焼きついているのは、カリマバードのフォートからの眺めだったという。ウルタル山の裾野からフンザ川に向かって広がる谷一面を杏の白い花が埋め尽くす。斜面に張り付くように建つ家々も花に埋もれ、「まさにこれぞ桃源郷」。

何年も何年も頭の中に描いてきた光景が目の前に広がっていたのだから、彼女の感激はひとしおだっただろう。

母が帰国後、送ってきたメールで印象的なフレーズがあった。ここに引用する。

「旅を終えて思ったことがあります。桃源郷というのは目に見える光景よりもそこに住む人たちの心のもち方をさしているのだということを。争うことを嫌い、穏やかで平和な生活を営んでいくための知恵と寛容さをもった人たち、そういうものこそ桃源郷の必要条件のような気がしています。そう考えるとフンザもいつまで桃源郷でありえるか、自分も加害者になっているのではと考えたりします」。

たしかに。

杏の白い花の美しさと同時に強く思い出されるのは、かの地の人々の笑顔だ。フンザを始め、パキスタンで出会った人たちとのちょっとした会話、崖の山を登るときに、ふと差し伸べられた助けの手、優しい励ましの言葉…。

いつか何かの形で、この国の人に恩返しができたらいいな、そんなことを思っているうちに時間は過ぎた。

そして大震災が起こった(2005年10月8日)。

フンザは被害を免れたが、道中に出会った子供たちや、家畜の群れ、小さな村の家々はいったい……。私も母も、震災勃発後は、何がなんだかわからず、とにかく新しいニュースを求めて、ネットに張り付き、お互いの思いをメールでやりとりしていた。

ほどなくベーグさん夫婦が、基金を立ち上げ、支援活動を始められた。結局、私ができることといえば、寄付をすることぐらいだったのだが。ご主人のアミンさんを中心に、多くの現地の人々によって、支援活動は続けられている。本当に頭が下がる思いだ。

そんななか、ひとつ、ハッピーなニュースが舞い込んだ。私たちをガイドしてくれたシャフーさんが結婚したという。道中、フンザパニーという現地のお酒を飲みながら、恋バナ(失恋話!)に花を咲かせた一夜が思い出された。おめでとう!

彼とは2つの約束をしている。1つは、夏か秋にフンザを再訪すること。夏は果物が美味しいらしい。2つめは、彼が日本に来て、私と母の家に泊まること。母はボランティアで日本語教師をしているので、マンツーマンで日本語教育を受けられる特典つきだ。できたら、今度は、お嫁さん(+ベイビー?)といっしょに会いたいな。

最後になりましたが、おっかなびっくりの私たち2人の旅を、心細やかにサポートしてくださった「シルクロードキャラバン」のアミンさん、奥さんに深く深く御礼申し上げます。

シルクロード・キャラバンより

親子になられたばかりの五島さん、はじめての旅にフンザを選んでいただきました。五島さんのお母さんの30年来の夢、フンザ行きがかなった旅でした。杏の花をご覧になりたい、ということで、ゴールデンウィークでは少々遅かろうと、その少し前の日程を組ませていただきました。

玲子さんはプロのライター、旅の感想文というより、もう、素晴らしい紀行文ですね。短いご旅行でこれだけさまざまなことを感じていただけたのは、フンザの人間としても、旅行会社としても冥利に尽きます。

帰国後、ほどなく起きた10万人以上の死者を出したパキスタン北部大地震に際し、我われが立ち上げた基金・支援活動についても、五島さん親子に、ずっと見守っていただきました。弊社は小さな会社ですが、お客さまたちとこのような縁を紡いでいけて、幸せです。